ひとは誰かが死ぬと涙する。悲しいから。淋しいから。切ないから。哀しいから。寂しいから。愛おしい人がもう存在しない切なさ。そして心から湧いてくる哀しみや寂しさから人は涙する。
 ひとは死んだ瞬間から人としての体から、死体である遺体へと替わる。最期は全力で走った後のように肩で息をする。だから苦しそうに思える。しかしこの頃には本人の意識はもうろうとした状態で苦しさはおそらく感じていない。しばらくすると頭を動かし顎で呼吸するようになる。終わりに近づくと1分くらい呼吸が止まったと思ったら突然大きく息を吐く。何度か繰り返した後に、今度は本当に息を吸い込まない。これで呼吸が停止。心臓はその後も、筋肉(心筋)がわずかに動いたりする。モニター心電図にはこの筋電図が映る。周りにいる人達はまだ、「心臓が動いている」「生きている」と感じるし、思う。しかし、すでに心臓は停止している。心臓が止まると、温かかった体はどんどん冷たくなり、ピンク色だった肌はみるみる白くなる。数時間もすると死後硬直となる。誰が見ても死は現実のものとなる。この間にひとは涙を流す。「何もしてあげられなかった」という後悔の涙。「自分だけ置いて行かれた」という寂しさの涙。「もう2度と会えない」という哀しみの涙。
  ひとの死に方はいくつかある。哀しみの強さに影響を及ぼす死に方。死んでいく期間では、天災や交通事故、溺死など不慮の事故による死。突然死。予期せず発病してから数日で死んでしまう病気。予期できても、数カ月から12年で死んでいく死。徐々に状態が悪くなり死んでいくもの。年齢では、子供の死。大人の死。老人の死。関係性では子供の死。配偶者の死。親の死。友の死。それぞれの死に、周りのひとは哀しむ。ひとそれぞれに異なる哀しみを抱く。
  わたしが日々向き合うひとたちは、心不全だったり、糖尿病だったり、脳卒中だったりと何らかの基礎的な病気があり、そのために生活に支障が生じたひとたちだ。障害(障碍)によって介護が必要となったひとたちだ。そしてそのほとんどが高齢者だ。人生の終盤にたどり着いた高齢者だ。言い換えれば、その多くは、1年後かもしれない。1ヶ月かもしれない。明日かもしれない。いつ死んでもおかしくないひとたちだ。戦争があり、戦後の食糧難があり、高度成長期やバブル景気の中を一生懸命生きてきた。長い人生の中で楽しい思い出があり、つらく悲しい思い出もある方々だ。そして最期に障害(障碍)を持ち、それを受け入れ、残りの時をその障害(障碍)と付き合って生きていかなければならなくなったひとたち。
  わたしはこう思う。一生懸命生きることも、頑張って生きることももうしなくていい。明日どうなるかなんて悩む必要などない。なるようにしかならないのだから。
  健康長寿と国が言う。長生きこそが素晴らしいと世の中が思い込む。一日でも長く生きるためにと週刊誌は特集を組む。長生きの先には何があるのか。病院や施設の片隅で、手足は拘縮して、食事は管から注入されて、呼びかけても虚ろな眼差しは動こうとせず、カーテンで区切られた日の当たらない部屋で人生を終わっていくひとたち。
  わたしはこう思う。幸せな人生だったのだろうか。家族はそれでも生きていてほしいのだろうか。医師からそれしか選択肢が示されなかったからそうしただけで、心の底では後悔してはいないのか。
  わたしはこう思う。働きづめだったひと。子育てに打ち込んだひと。両親の面倒を看てきたひと。この人たちは頑張らなければならないのか。もう十分頑張ったじゃないか、頑張らなくてもいいじゃないか、と。
わたしはこう思う。人生の仕上げは楽しくていい。何をあくせく、明日を思い煩うのか。
わたしはこう思う。残りの人生を精一杯楽しく過ごして欲しい。ダメなんてことは何もない。やりたいことは何でもやればいい。結果なんて気にすることは無い。どのみち死んでしまうのだから。だったら悔いなく最期まで好きなことをして生きればと。
  そのためにわたしたちはこんなことができる。ほほえみかけること。笑いかけること。楽しい時を創ること。生きていてよかったという思い出をたくさん作ること。
  わたしは家族がこう思えたらいいと思う。みんな悔いがないと思えたら。やりきったと思えたら。生き切ったねと思えたら。
  そのためにわたしたちはこんなことができる。ほほえむこと。笑うこと。いっしょに思い出を持つこと。
  わたしたちがかかわった時間はほんのわずかでも、遺体をきれいにしていく束の間、私たちがこんなふうにかかわり、こんなふうに返してくれたこと。昔こんな生き方をしてきたこと。子供を大切に育てたこと。奥さんをたくさん愛したこと。こんな仕事をしてきたこと。友達がたくさんいたこと。犬をとてもかわいがっていたこと。毎年春に花見に行ったこと。まさか自分が奥さんのオムツを換えるとは思わなかったと。家族とたくさんの思い出話をしていると、それまで寂しくて、哀しくて涙一杯だったひとたちが、ちょっとずつ笑顔になっていく。チークが濃すぎだとか、口紅が薄いとか。着せる服はどれにしようか。この服はこんな時に来ていてとか。たくさんの思い出を話しているうちに自然と笑顔が戻ってくる。
  わたしはこう思う。精一杯人生を楽しむこと。精一杯人生を生き切ること。そう生きられたら幸せだなと。
  わたしたちはこうしたい。人生を楽しみ、人生を生き切りみんなが笑って最期を迎えられる。そんな死なせかたを手伝いたい。
  わたしはこう思う。また過激なことを言ってしまった。けれど誰かがこの論争に火をつけなければいけないと。