10周年、20周年と言えば、これから先のことについて力強く語ることが当たり前だと思う。でもぼくは元来前向きじゃないから、力強くこれからを語れない。だからこれまでを語ってみる。
 20年前、胸いっぱいの希望とどこまでも続く夢を追い求めて施設を作った。認知症ケアから始めて褥瘡治療、栄養サポートチーム、背面開放座位による姿勢保持。寝返る、起き上がる、座る、立つ、歩くという基本姿勢に対するこだわり。在宅介護、在宅の見取り、認知症の終末期、末期がん、老衰。そして生きるリスク。教科書に書かれていること、最新の報告、そして一番はひとを観察して疑問を持つことから浮かぶアイデア。「しょうわ」は常に進化してきた。20年前には対処できなかったひとも、今なら幸せにできるだろう。もっと楽しく生きてもらえるだろう。ひとりひとりの命が「しょうわ」を進化させてくれた。ひとりひとりの家族の思いが「しょうわ」を進化させてくれた。そして今、「しょうわ」がある。
 この国は高齢者が増え続けている。2025年から2040年。医療も介護もこれからどんどん需要は伸びていく。成長産業と言われている。けれども、その人たちにサービスを提供する人の数は足りない。外国人労働者。自国の国民で賄えず、外国人に頼る国は大丈夫なのか。IT、AI、ロボットが介護の省力化、効率化に有用と国はいうけれど、機械に介護されたいのか。アザラシのロボットに癒される老人は、ほんとうの犬のぬくもりを忘れてしまったのだろうか。
 20年、世の中を見わたせば、何も変わっていない現実がある。よかれと作られた政策は、果たして本当に良かったのか。グループホームに代表されるユニットケア。部屋とリビングの間しか歩けずどんどん弱っていく下半身。一度施設入所してしまうと二度と娑婆の空気を吸えない世界が老人介護の限界。散歩に行けるかって?行けるわけないでしょ。人手不足なんだから。それより危ないから立たないでください。転んだら大変なんです。骨折したら寝たきりですよ。わたしのせいになっちゃうでしょ。あっ!立っちゃダメ!ダメって言ってるでしょ!なにやってるのっ!車いすに座らされっぱなし。ベッドに寝かされっぱなし。椅子に座っていても前にはテーブル、後ろは壁。「あの、すみません。トイレに行きたいんですけど連れて行ってもらえませんか」なに言ってるの、おむつしているんだからそこにしてください。10時になったら交換するから!どんどん語尾の上がる会話。スピーチロックという。
 何か変わったのか。何も変わらない。財務省は介護看護基準が3:1なのだから、企業努力で2:1にしているのは施設の問題で、ひとをそんなにたくさん雇えるのだから介護報酬は引き下げてもいいという。人が足りないからベッドを満床にできない。最近あちこちの施設で起こっている現実。基準ギリギリの人もいない。殺伐とする現場。でも料金は安い。人手が足りない、時間が足りない。だから仕方がない。この業界は何も変わっていない。ちょっと愚痴ってみました。この国の制度。
 ぼくはいつも現場を見ていなければならない。理事長は何も見ていないとスタッフには言われる。横暴だ。欺瞞だ。嘘つきだ。そういって退場していったスタッフがたくさんいた。これからもたくさん続くだろう。なんで変われないんですか。そうですねー、これが僕だからです。これがぼくのやり方だから。これがぼくの生き方だから。「そんなひと最低」それでもぼくは現場にいなければならない。ぼくの不安を打ち消すために。
 ひとはしがらみの中で生きている。しがらみがなければひとは生きられない。いろいろなものに縛られることで、自分の居場所を確認している。縛られなければどこにいるのかわからなくなる不安。自分がどこの誰だかわからない恐怖。だから縛ってくれるものを求めている。それが自分を苦しめると知りながら。ぼくにもたくさんのしがらみがある。仕事、家族、社会的責任。けれどもぼくはしがらみが苦手だ。だからしがらみがぼくを苦しめる。しがらみから逃げ出したいと思うことがある。ちょくちょくそう思う。一度は本当に逃げ出した。でも戻ってきた。戻ってきてしまった。そして今、しがらみの中で生きている。
 「この国の介護を変えたい」から始まり、「この国の医療を変えたい」そして、「自分らしく生きて、自分らしく死ぬためにはどうすればいいのか」次々としがらみを作ってきた。勢い。それだけで走り続けてきた。ぼくは双極性障害。躁の勢いで考え、後先考えずに行動した結果しがらみを作ってきた。うつの時にはしがらみに対する不安と恐怖に焦り、いらつき、怒鳴り、暴れた。焦燥感の中でしがらみを捨てる努力をしてきた。
 きのうひとつしがらみを手のとどかないところにおいてきました。あしたまたひとつしがらみをおいてくるつもりです。どこかに。
 「長生き」というしがらみをどこか遠くにおいてこれたら、きょういちにちが楽しく終わる気がします。
 これが僕の20年です。みんな「長生き」というしがらみを、どこか遠くにおいてこれたら、きょういちにちが楽しく終わることができると思います。あしたを自由に生きられると思います。ぼくだけじゃなくみんなが。