「オムツにしてください」と言われてきみはそこに糞尿ができるか。
 主菜も副菜も刻まれ、粥にごちゃ混ぜにされたものをきみは食べられるか。
 ベッドに寝かされたままきみは一日を過ごせるか。
 わたしにはできない。わたしには耐えられない。。

 戦争は人の尊厳を奪う。尊厳を奪われた人々は緊張や不安や恐怖に表情を失う。生気感情を奪う。紛争地域のニュースに映し出される人の顔。同じ顔を施設で見る。病院で見る。生きる希望を失い、ただ生かされている人の顔。感情を心の奥底にしまい込み、主体としての生きることをやめた人々。認知症の終末期は大脳皮質機能が低下し、終末期には失外套症候群(眼球は動かせるが、身動きせず、言葉も発さない状態となる。睡眠と覚醒の調節は保たれ、通常通り起床することは確認できる)になっていく。人為的に作られた人たち。刺激に反応しなくなってしまった人たち。そうしなければ生きていけない人たち。
 介護現場は人手不足が続いている。厚生労働省は省令で特別養護老人ホームや介護老人保健施設の人員基準を定めている。3対1、つまり利用者3人に対して看護、介護職員を1人配置しなければならない。10年前はこの基準はあくまでも最低基準であり、各施設で必要に応じた職員数を採用するように指導された。このため介護施設は2.5対1、2対1と基準よりも多くの職員を配置していた。それが介護報酬の抑制政策によってどんどんと報酬が抑制され、さらに昨今の人手不足も加わり、3対1を維持するのも困難な状況となり、多くの施設でベッドは空いていても職員が基準を満たせず空いたベッドを利用できない状況だ。このような状況にもかかわらず、財務省はさらに報酬を減らそうとしている。人手不足はAIや介護ロボットを活用すればいいという。離床センサーを設置した施設では、センサーが反応すると職員が駆け付け、「危ないから寝ててください」と寝かしつける。「どうしました。トイレですか」そんな声をかけられることは稀なことだ。アイボやアザラシロボットに話しかけて喜べる人は、よほど人のぬくもりに飢えた人たちだ。尊厳は奪われていく。
 けれど、これも自業自得のなのだ。2対1の時代にも、週2回しか風呂に入れないことを誰も疑問に思わなかった。定時でおむつを交換することに誰も疑問を持ってこなかった結果なのだ。現場は「そういう決まりだから」と思考停止し、経営者は「国が決めたことだから」と利用者を見ようともしてこなかった結果だから。
 もし、現場の職員がもっと利用者や家族に寄り添っていたら、尊厳について考えていたら、「仕方ない」で済ませてこなかったら。経営者が利用者や家族のことを真剣に考えていたら、尊厳を真剣に考えていたら、自分が同じ介護を受けると真剣に考えていたら。人が足りない中でどのような工夫ができるかともっと考えただろう。もっとたくさんのアイデアが生まれてきただろう。少なくとも週2回しか風呂に入れないような入浴システムしか持たない施設は作らなかっただろう。
 この業界の最も悪いこと。制度の中でしか物事を考えないこと。国が決めたことだから「仕方がない」と考えないこと。新しいやり方を考えず、与えられたものの中で何も工夫しないこと。考えなくても経営ができてしまうこと。
 もし利用者の尊厳のためにこれだけの工夫をしてみた。努力をしてみた。その上で、尊厳を守るためにはどうしてもこれだけの人が必要だ。というデータがあったら。けれども、そんなデータはどこにもない。制度の中でしかものを考えられないからだれも作れない。本当の人手不足の問題を世の中に伝えられるのに。
 もしこのようなデータがあったら、尊厳を守る介護を行うにはこれだけの予算が必要だ。そのためには消費税をこれだけ上げなければならないと訴えられるのに。でもそんなデータを作ろうとはしない。
 「仕方ない」が充満した職場は面白くないし魅力がない。いくら給料を上げても、やりがいのない職場では労働生産性は上がらない。表情をなくした利用者を見てやりがいを感じる人などいない。プライドを持って自分の仕事を語れるだろうか。もし語れるなら、尊厳を知らないからだろう。
 「仕方ない」病と「国が悪い」症候群が蔓延したこの国の介護施設では「あたりまえの生活」を送ることがとても難しい。
 けれどこのままでよいのだろうか。わたしはそうじゃない施設を作っていきたい。「仕方ない」で済ませない施設を作っていきたい。尊厳のある介護を考え続けていきたい。

 きみは、きみは眼を見て、胸を張って自分の仕事を語れるか。
 わたしは、スタッフに胸を張って語れる仕事をしてもらいたい。
 わたしは、そう語れる環境を作っていきたいとは思う。